決して其れに触れてはいけない


触れてしまったならそれが最後


その現実から逃れることはできない


たとえ愛する人を別の容で失っても



滲む


「・・・・ユーリ」


不意に、視界の淵にちらついていたはずの青色が消えた。
聞こえた声の場所から、それはおれの背後に立ったのだと気付く。
「なに?」
おれは机の書類と戦いながら、顔を上げずに返事をした。
何故こんな紙切れがわんさかあるのだろうか。もしかして資源の無駄ではかなろうか。地球みたいに、デジタルデータ化なんてさせられればどんなに良いだろう。
・・・そんなことを考えていても目の前の敵が減るわけではないのだ。こうも追い詰められると逃避もしたくなるが、今はただただ必死に、手を動かせという命令のままに書き続けるしかない。
ただザッと文字を辿って、サインをするだけなのに、何もかもがたどたどしいおれにとってはかなりの重労働だ。
「ひとつ、質問をしてもいいか?」
呑気に質問なんてしてる暇があったら手伝って欲しい。
今や誰の手だって借りても構わない状況なんだから。
「どーぞー、あでも難しい質問はやめろよな。今すっげぇ忙しいんだから・・・・・っあ、間違えた」
近くで、馬のいななく声がした。
誰かが視察から帰ってきたのかもしれない。風に遊ばれていたカーテンが翻って、窓の外の風景を見せる。
「・・・・もしもぼくが、お前のことを忘れてしまったら、どうする」
入り込んでくる風が生温い。
今日は一日中蒸し暑くて、本当に居心地が悪い。この暑苦しい学ランを脱ぎ捨ててしまいたいほどだ。まぁ第一、そんなことをしたら、あの王佐が黙っていないだろうけど。
「えーなにそれ、心理テスト?わー昔流行ったなぁ。よくやった」
「お前は、どうする」
ぶっつづけサインのせいで、ヴォルフの顔色は伺えない。
どうして、そんなことを聞く?くだらない。「もしも」なんて。
「・・・・・何もしないよ。というか、特に何も変わらないんじゃないの?」
手元の万年筆のインクが滲んだ。じわりと黒が広がって、染みをつくる。
「・・・・・・・・婚約者、なのにか」
修正液が欲しい。何の色にでも染まってくれるようなやつが。
「まだ言ってんのかよソレ。おれたち男同士だろ・・・あーあ、真っ黒」
指にまで付けてしまったインクを、学ランの袖で拭った。同じ色なのだから良いだろう。
まだまだサインは終わらない。昼になったら、息抜きにコンラッドとキャッチボールでもしようと思っていたのに、こんな調子では目標値までも達することが出来ない。
いい加減、腕も痛くなってきた。このままいけば腱鞘炎になりそう。
「あーヴォルフ、ちょっと休憩にしてイイ?すぐ戻るからさ」
少し抜け出して、外の空気を吸いたい。神経が鈍ってしまいそうだから。
「ギュンターに怒られるぞ」
「大丈夫だって。ホント疲れたから、30分くらい休憩させて」
そう言って手を振ると、おれは走り出した。思い立ったらすぐ行動。おれのモットー。
いつもの様に止められるかと思ったが、今日のヴォルフは何故か黙っていた。
窓枠に手を遣って、静かに外を眺めながら。おれを追いかけてはこない。



穏やかな風が吹いていた。







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